企画調査委員会

農民芸術概論
八燿堂/2021年
本書は,宮沢賢治が30歳の時に書き綴った「農民芸術概論綱要」をはじめ,いくつかの著作を編んだものである。
宮沢賢治は,1896年に岩手県花巻市に生を受けた。その年は,明治三陸大津波が岩手県沿岸を襲い,内陸では陸羽地震が発生している。また当時は,度々東北地方で凶作となり,ときに飢饉が起きた。
賢治が亡くなった1933年は,昭和三陸大津波の襲った年で,「雨ニモマケズ」を手帳に記した1931年も,冷害のため凶作だった。
賢治の学んだ盛岡高等農林学校は,1902年に北方寒冷地の農業振興や農業技術の革新を主な目的として設置された。在学中に師事した土壌学者の関豊太郎は,凶作原因調査報告をまとめ,東北地方の凶作と沿岸潮流の関係を究明したことで知られている。賢治の入学する前年から卒業の年まで,第一次世界大戦が続いていた。
宮沢賢治が生きた時代は,今のように北上川水系にダムはなく,疎水が十分に整備されていなかった。鉄道はあったが,ラジオ放送が始まったばかりの頃だった。たくさんの文学作品を創作しながらも,この北方寒冷地で灌漑用水も未整備の厳しい自然環境の中で,自ら農民になり,農業指導を行い,農民の生活を芸術へと昇華させる挑戦を行っていった。
1926年,賢治30歳の年,花巻農学校教員を退職し,羅須地人協会を設立する。農作業,農業指導,芸術活動を行いながら,「農民芸術概論綱要」が執筆された。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」,「われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの大きな第四次元の芸術に創り上げようではないか」,「われらに要るものは 銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である」と賢治は呼びかける。これは,逆境のなかでの地域づくりの実践だったと捉えることができる。
同じ頃,同じ岩手県出身の後藤新平は,関東大震災からの帝都復興計画の策定と実施に奔走していた。佐藤昌介は,札幌で北海道帝国大学の礎を築いていた。新渡戸稲造は,国際連盟事務次長として混迷する世界と向き合っていた。宮沢賢治は,生まれ故郷岩手に在りながら,銀河と対話し農民芸術を主題とした地域づくりを実践していたのである。
紹介:岩手大学 教授 南正昭
(都市計画376号 2025年9月15日発行)